棟方志功について

棟方志功の油絵を初めて観た時の衝撃が忘れられない!
目が不自由だったからこそ、棟方志功は心の内がさらけ出せたのでしょう。
それは晩年のベートーベンのようにも思えます。
絵の値段にしても当時、八十万円だった倭画が今では四、五百万円になっています。
そして、物故作家の中で、現在も絵の値段が下がっていないのは、棟方志功ただ一人です。それほど評価が高いのです。
棟方志功の作品と生き様に惚れ込み、ギャラリー双鶴ではその作品の買取・販売にたいへん力を入れております。
常時五、六十点の作品を持ち、全国各地のデパート等で棟方志功作品展として展覧会を開催しております。
棟方志功に関しては、業界トップクラスだと自負しております。
棟方志功の作品の、ご売却・ご購入は買取販売に強いギャラリー双鶴までお気軽にご相談ください。

  1.  

    棟方志功「夜訪の柵」

    棟方志功 善知鳥板画巻

    • 棟方志功作品
    • お勧め作品

     

  2.  

    棟方志功 二菩薩釈迦十大弟子

    • 棟方志功作品
    • お勧め作品

     

  3.  

    棟方志功 鍾溪頌

    • 棟方志功作品
    • お勧め作品

     

  4.  

    棟方志功と弁財天

    • 棟方志功作品
    • お勧め作品

     

  5.  

    棟方志功紹介

    • 棟方志功作品

 

棟方志功の生涯・人物像や代表作品について

棟方志功「獅子窟の柵」です。

 

 

 

 

 

棟方志功(むなかたしこう)は、昭和の代表的な板画(版画)家であり、世界的に評価されている美術界の巨匠です。この記事では「わだばゴッホになる」の言葉でもよく知られている棟方志功の人物像や代表作品について解説しています。

 

棟方志功について

棟方志功「颯子の柵」です。

 

 

 

 

棟方志功は、非常に国際的に評価の高い板画家(版画家)です。「板画家」は、棟方志功自らが版画のことを板画と呼んでいたことに由来します。棟方志功は1942年以降、自らの版画については板画と呼んでいます。棟方志功の作品はなんとも独創性にあふれ、「棟方板画」とまで呼ばれるようになりました。

棟方志功は、日本人として初めて、ベネチア・ビエンナーレにおいて国際版画大賞を受賞しているほか、数々の国際的な展覧会において賞を獲得しています。

東洋の雰囲気があふれる棟方志功の作品は、シャープな彫刻刀の操作、シンプルな形態、そしてみなぎるパワーが非常に特徴的です。

棟方志功は、さまざまなものをテーマに取り入れ、作品として仕上げています。女性、仏像、伝説など、心動かされた事象を版画で表現したのです。棟方志功は、「わだばゴッホになる」の言葉でもわかるとおり、好きになるとその心を作品へと注ぎ込む「情熱的」な板画家です。そんな情熱的板画家をご紹介するために、まずはその一生をシンプルに振り返ってみましょう。

棟方志功の略歴

棟方志功「吾妹子の柵」です。

 

 

 

 

棟方志功が生まれたのは、20世紀が幕を開けて間もない1903年のことでした。棟方志功は、青森で鍛冶屋を営んでいた家の15人兄弟の三男(6番目)です。子供の頃から、絵を描くことがじょうずだったといわれています。好きになるとその心を作品へと注ぎ込む情熱的なスタイルの素地は、この子供の頃に養われたのかもしれません。

ただ、棟方志功は芸術に取り組むうえでは不利になりかねない「極度の近視」を抱えていました。育った環境が原因だったともいわれていますが、棟方志功は小さな頃から、このディスアドバンテージを抱えながら生活していたのです。

棟方志功は、小学校を出ると家業の鍛冶屋で働き始めます。しかし、その後、給仕の職に就くと、精力的に絵を描くようになります。棟方志功は、レンズの厚いメガネをかけ、さらに画面に密着するようにして絵を描いていました。

ゴッホに目覚めたのもこの頃で、棟方志功はここから画家を目指すことを決意します。

この決意に導いたのは、ゴッホの名作のひとつ「ひまわり」です。筆の運び方など「これぞゴッホ」ともいえる一連の「ひまわり」作品は、悲しさと明るさの対比が非常に特徴的ですが、そんなところにも棟方志功は触発されて画家を目指すことを決意したのかもしれません。

ちなみに、真偽はともかくとして、棟方志功はゴッホのことを「画家という職業」のことだと思っていたという話もあります。

棟方志功は21歳のときに東京へ向かい、展覧会にも作品を出しますが、よい結果にはつなげられずじまいでした。その後、不遇の時期を過ごすうちに、棟方志功は版画の世界に夢中になっていきます。

棟方志功は、1930年、青森で赤城チヤという女性と結婚します。しかし、夫婦の生活は、棟方志功の東京での生活が落ち着くまで実現しませんでした。チヤが東京にやってきて、いっしょに暮らすようになったのは、結婚の翌々年のことでした。棟方志功は、のちにチヤとの間に4人の子供をもうけます。次男の棟方令明さんは、棟方板画美術館の館長を務めたことでも知られています。

「大和し美し版画巻」という作品を国画会展に出品したのが33歳のとき。この作品は、とても大きなもので、なんと長さ7mもありました。この作品は当時、生活の中のありふれたものに魅力をみつけ、そして利用するという民芸運動の第一人者である柳宗悦の目にとまりました。当時、新規開館することになっていた日本民藝館に導入する作品を探していた柳宗悦は、この作品を購入します。柳宗悦との出会いをきっかけに、棟方志功は仏教や民芸の世界に傾倒していきます。柳宗悦は、技法でも棟方志功に影響を与えており、棟方志功の代表的な技法である紙の裏から色づけする「裏彩色」も、柳宗悦の影響によるものです。この作品で注目を集めた棟方志功は約2年後、35歳で「善知鳥版画巻」を発表し、特選を受賞します。戦局はこの頃から激しくなり始め、棟方志功自身も疎開を経験します。空襲などの逆境を経験しながらも、棟方志功は版画への情熱を深めていきます。戦争が終結し、さらに年月が経過した1955年にブラジルで行われた展覧会にて最高賞、さらに翌年のベネチア・ビエンナーレにおいて国際版画大賞を受賞します。これらの受賞により、棟方志功の名前は世界へと響きわたりました。

その後、棟方志功は、57歳で左目の視力を完全に失います。これ以後は、右目だけに頼って作品を確認しながら制作を続けました。棟方志功の板画への情熱は、高齢となり、文化勲章を受けたあとも衰えることはありませんでした。

1975年、棟方志功は、東京にて肝臓がんで亡くなります。故郷の青森にある棟方志功のお墓は、ゴッホの墓をモデルにして作られたものです。

棟方志功の作風や人物的な特徴

棟方志功「棟蔭寶韻妃図」です。

 

 

 

 

 

棟方志功は、すでに触れたように、幼少期から近視だったため、顔を作品にぴったり近づけるようにして、さらに軍艦マーチを歌いながら制作活動をしていました。戦争の影響が東京に及ぶようになると、棟方志功は富山県に疎開します。そこで出会ったのが、後の作品にも影響を与える浄土真宗です。棟方志功は仏様をテーマにした数々の作品を世に出していますが、「阿弥陀如来像」「我建超世願」などは特によく知られています。

故郷青森で行われる「ねぶた祭」をこよなく愛していたこともあり、棟方志功はねぶたをテーマにした作品も世に送り出しています。実際に棟方志功は、ねぶた祭にて、ハネトとして踊っていたことでもよく知られています。ねぶた祭に参加する自分自身を描いた作品もあり、それだけでも棟方志功の「ねぶた愛」が感じられるのではないでしょうか。

棟方志功が日本、そして世界にのこしたもの

棟方志功「鼓笛の柵」です。

 

 

 

 

棟方志功は、画家としてはなかなか芽が出ず、苦労しましたが、版画の魅力に引き込まれたこと、そして多くの人との出会いにより成功を収めます。ここでは、そんな棟方志功の功績についてまとめてみました。

世界で評価されたエネルギッシュな作風

棟方志功は、日本で一定の成功を収めましたが、世界的にはさらに高く評価されています。1950年代に入り、海外の展覧会に積極的に出品するようになった棟方志功は、主要な展覧会でも受賞を重ねていきます。海外の展覧会への出品だけではなく、個展や講演を開くようになると、ますます高い評価を得るようになりました。芸術には言葉を超越して伝える力があるといわれますが、棟方志功の作品には、まさにその力があったといえるのではないでしょうか。

版画界の発展に貢献

棟方志功が画家として芽が出ずに苦しんでいた頃、版画という芸術自体、あまり評価されているものではありませんでした。位置づけ的には油絵よりも下であった版画でしたが、独創的なことをしたいと考えていた棟方志功にとってはとても魅力的なものでした。

版画と出会った棟方志功は、積極的に「心の動き」や「ストーリー」などを版画に落とし込んでいきます。特に柳宗悦との出会いのあとは仏教の世界を題材にした版画作品も数多く手がけています。その後、生涯を通して版画作品を世に出し続けた棟方志功は、版画界の発展に大きく貢献した人物だといえるでしょう。

和風とは異なるプリミティブな魅力

棟方志功の作品は、よく「東洋的」だと言われたます。たしかに、棟方作品には東洋的な部分や和風な部分も多いのですが、棟方作品には、それらをまったく超越した、もっとワイルドなパワーがあるのです。そのワイルドなパワーは、単純に東洋的という範疇には収まらず、未開であり、原始的にも感じられるものだといえます。これは棟方志功独自のものです。

棟方志功の代表作品

ここからは、棟方志功の代表作をご紹介していきます。

二菩薩釈迦十大弟子

「二菩薩釈迦十大弟子(にぼさつしゃかじゅうだいでし)」は、1955年にサンパウロビエンナーレ国際美術展において版画の最高賞、1956年にヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展において国際版画大賞をとった作品です。棟方志功の作品の中でも「これがムナカタ」といった感じで大変評価されています。二菩薩(文殊・普賢)と釈迦の有名な弟子を彫った作品です。

大和し美し版画巻

「大和し美し(やまとしうるわし)版画巻」は、1936年に発表された作品です。佐藤一英の詩「大和し美し」を、棟方志功が版画として表現しました。「大和し美し」のテーマは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の生涯であり、棟方志功は3年の歳月をかけて7mという長大な作品を完成させました。

門世の柵

棟方志功「門世の柵」です。

 

 

 

 

 

「門世の柵(もんぜのさく)」は、頬の赤い、棟方志功が描く女性の特徴がよく出た作品です。版画の四隅には方角が彫り込まれており、「門」はその方角を意味しています。「四門出遊(しもんしゅつゆう)」という釈迦が出家を決めたときの伝説をにおわせています。

沢瀉妃の柵

「沢瀉妃の柵(おもだかひのさく)」も、頬の赤い女性が描かれた作品です。オモダカは水田や用水路などに咲く花で、棟方志功はこの花をとても愛していたそうです。

善知鳥版画巻

「善知鳥版画巻(うとうはんがかん)」は、柳宗悦ら、民芸運動の中心となった人たちと知り合い、影響を受けたなかで制作された作品です。善知鳥版画巻は、9枚の画で構成される版画で、1938年に開催された新文展において特選を受賞しました。版画が特選を受賞したのはこの作品が初めてで、当時としては快挙でした。ちなみに善知鳥(うとう)は北の海に多く生息する海鳥です。善知鳥に関する伝説を聞いた棟方志功が、その感動を作品化したそうです。

鐘溪頌

「鐘溪頌(しょうけいしょう)」は、1945年に棟方志功が陶芸家の河井寛次郎のトリビュートとして制作した作品です。24の柵で構成されている作品は、棟方志功の以降の芸術性を定めるかのような仕上がりになっています。

湧然する女者達々

「湧然する女者達々(ゆうぜんするにょしゃたちたち)」は、1953年の作品です。棟方志功はこの作品で、原始を生きた日本の女性が持つ生命力を堂々と表現しています。

群生の柵

「群生(ぐんじょう)の柵」は、1957年に発表された大画面の作品です。このような大型作品からは、版画をまさしく絵画と同様の芸術作品とする、棟方志功の挑戦する志が感じられます。

恐山の柵

1963年の「恐山(おそれざん)の柵」は、故郷青森への思いを強めていたこの頃の棟方志功を代表する作品です。

大世界の柵、乾

「大世界の柵、乾(けん)」は、元々は「乾坤頌(けんこんしょう)」というタイトルで倉敷国際ホテルのために作られた作品でした。その後、1970年の大阪万博に、乾坤頌の版木の裏面を使った作品が出品され、このタイトルに変更されました。

作風の変遷や交友を中心とした棟方志功の年譜

棟方志功「阿那律の柵」です。

 

 

 

 

 

棟方志功の略歴についてはすでにご紹介しました。ここからは、棟方志功の作風の変遷や交友を中心としたお話を年譜の形式でご紹介していきます。

わだばゴッホになる

「わだばゴッホになる」は、棟方志功の自伝のタイトルにも選ばれているほど有名な言葉です。若かりし棟方志功が「白樺」で見たゴッホの「ひまわり」に触発されて放ったといわれる言葉です。その言葉どおり、棟方志功の芸術家としての人生は、常にゴッホを目標としたものとなりました。

棟方志功は、この言葉とともに1924年、21歳で東京を目指します。帝展を目指して油絵を描き続けましたがなかなか結果は出せず、ようやく入選を果たしたのは1928年、25歳のときのことでした。

版画との出会い

棟方志功は、油絵でなかなか結果が出せなかった頃の1926年に、ある版画と出会います。その版画は、川上澄生の「初夏の風」という作品でした。この作品には、川上作の詩が添えられていましたが、棟方志功は、そこに版画の可能性を見出したといわれています。西洋の油絵は、視力が極端によくなかった棟方志功にとっては、技術的にも表現的にもなかなか難しいものがありました。しかし、版画なら棟方志功が考え始めていた東洋式の構成が可能だと考えたのです。これが棟方志功のオリジナリティあふれる世界が始まった瞬間です。

棟方志功は、油絵の制作も続けながら、木版画の制作にも取り組むようになります。1928年頃からは、展覧会への木版画作品の出品も開始しました。

この頃の木版画作品は、比較的小さな画面の川上澄生に似た雰囲気のものにはじまり、やがて風景や人などへと世界を広げていきます。そして1935年には、ついに棟方志功の「型」ともいえる「堂々とした構図」と「白と黒のコントラスト」が完成します。

人々との出会い

棟方志功「青天の柵」です。

 

 

 

 

 

棟方志功は、版画に取り組み始めてから、のちの作風に大きく影響を与える人々と出会っています。その中には文人の姿もあり、彼らの影響を受けながら自らの作風を固めていきます。この頃は、出版の仕事にも関わっていたようです。このような生活を送る中で出会ったのが佐藤一英です。「大和し美し」の作者である佐藤との共同作業で、版画と詩が、これまでに類を見ない規模で融合したのです。

「大和し美し」は、さらに人を呼びます。1936年に国画会点に出されたこの作品は、民芸運動の中心にいた柳宗悦の目に触れます。「大和し美し」は柳宗悦に買い取られたことは前述のとおりです。棟方志功は、柳宗悦との出会いにより、民芸運動に参加した人々から芸術だけではなく、仏教や哲学など、数多くのことを吸収し、作品へと落とし込んでいくことになります。その集大成ともいえるのが「善知鳥版画巻」です。「善知鳥版画巻」は、1938年に特選を受賞した初めての版画になったことは、すでにご紹介したとおりです。

富山への疎開

第二次世界大戦の戦況が悪化し、東京などの都市への空襲も激しくなると、棟方志功とその家族は、東京を離れて富山県に疎開します。終戦の年(1945年)の4月のことでした。棟方家は、この富山県で6年強過ごすことになります。しかし、富山にいても柳宗悦らとの関係が途切れることはなく、谷崎潤一郎を筆頭とする文人とも交友関係を持つようになります。さらに富山では、仏教関係者と交流することにより、自身の芸術の肥やしにしていきました。富山に滞在しているときに築いた人脈や経験は、その後の作品に大きく影響することになります。戦争が終わり、最初の作品となったのは「鐘溪頌」です。

帰京、そして世界へ

棟方一家は1951年、富山をあとにして帰京します。戦争で傷ついた日本社会はこの頃、力強く復興へと向かい、芸術家にとっても追い風が吹いていました。棟方志功はそんな中、これまで所属していた日本版画協会をぬけ、日本板画院を設立します。さらにその後、国画会から日展に鞍替えするなど、日本の美術界における自身の立場を明確にしていきます。

帰京した棟方志功は、国内の展覧会だけではなく、海外の展覧会への出品も始めます。1952年には「女人観世音」を「ルガーノ白と黒国際展」に出品。さらに1955年には「二菩薩釈迦十大弟子」を「サンパウロビエンナーレ」に出品し、最優秀賞(版画)に輝きます。この受賞により「ヴェネチア・ビエンナーレ」に出品するチャンスを得た棟方志功は1953年、同作品などによりヴェネチア・ビエンナーレの大賞を獲得し、世界的に知られるようになったのでした。

その後も棟方志功は、世界での活躍を続けます。1959年にアメリカの財団や団体の招待により個展を開いたり、講演を行ったりしています。個展は非常に好評で、規模の大きな個展もアメリカの主要都市で開催されました。

まさしく全盛期ともいえるこの頃の作品では、棟方志功は大画面の作品に果敢に取り組んでいます。元々、長く大きな作品で注目された棟方志功でしたが、大きな作品を展示することは、展示する場所の状況も関係するため、作品の大きさや展示の形は常に課題だったのです。

戦後の作品では、画面はさらに大きくなり、これまでの屏風だけではなく、幅3mをオーバーする画面を連ねたり、もはや「壁」といえるほど巨大な「板壁画」にも取り組んだりしています。この頃の棟方志功の作品には、版画の世界を超越し、絵画の世界に踏みこむようなスケールが感じられます。

ただ、棟方志功の世界的な活躍は、日本の美術界においては、やや冷ややかに扱われました。版画を軽視する日本美術界の古い考え方や、これまでの美術とは異なる民芸という要素が、この冷ややかな評価に影響したものと考えられます。

ただ、棟方志功は世界に出ることで、西洋の現代絵画のトレンドもどんどん吸収していきます。そしてさらに、棟方志功の制作活動は力強く続いていきます。

失明してもなお衰えない創作への意欲

棟方志功「万来図」です。

 

 

 

 

 

子供の頃から視力に問題を抱えていた棟方志功ですが、1960年には眼病の悪化により左目の視力を失っています。しかし、棟方志功の創作意欲が衰えることはありませんでした。

倉敷国際ホテルのために作られた大作「大世界の柵」は、左目の視力を失ったあとの1963年に完成しました。この頃の棟方志功は、公共の施設に作品を提供するなど多忙ではありましたが、国内外の美術展への出品を欠かすことはありませんでした。自らの「板画」を、現代絵画と同じ土俵に並べ、芸術を追究していったのです。

棟方志功はこの頃、板画と同時に絵画、書にも活躍の場を広げていきます。これらは棟方志功独自のものであり、まさにジャンルを超えたものです。1970年、棟方志功は文化勲章を受章しました。これまでの美術への貢献が国に認められることとなったのです。

左目の失明を経験してからの棟方志功で特筆すべきは、故郷・青森をテーマにした作品が多いことです。過去に青森に関わるテーマの作品を制作しているものの、実はそれほど制作数は多くありません。もちろん、青森を思う心は人一倍強かった棟方志功ですから、晩年が近くなってから、満を持して、青森をテーマにした作品に取り組むようになったということなのかもしれません。1961年には青森県庁のために「花矢の柵」を制作、さらに「恐山の柵」や「津軽三味線の柵」など、青森をテーマにした作品を次々と制作しています。ただ、これら青森をテーマにした作品が、ただの懐かしさや原点回帰ということに終わらないのは、やはり棟方志功だからでしょうか。青森の文化、そして歴史を背景にした作品を制作しながらも、この頃は自画像も制作しており、「青森」と「自身の存在」をリンクさせて、何か自分の歩みを再確認しているようにも見えます。

以前から旅好きであった棟方志功は、海外で名声を得て以降も国内外問わず旅に出ています。1963~1964年にかけては「東海道棟方板画」を制作するために、7回にもわたり旅に出ています。

棟方志功は、高齢になってからたびたび海外を旅しており、1972年には仏教の故郷であるインドを、詩人の草野心平らとともに訪れています。この旅から帰国したのち、棟方志功は「彪濃の柵」という作品を世に出しています。

棟方志功は、1974年にもアメリカを旅しています。棟方志功が亡くなったのは1975年ですから、年老いても精力的に旅に出ていたことがおわかりいただけるでしょう。アメリカでは、現地のアトリエに入りびたって、創作活動も行うほどでした。

まことしやかにささやかれる棟方志功にまつわる話

真偽はともかくとして、棟方志功については、まことしやかにささやかれているお話があります。

観音様の落書き

借家に住んでいた棟方志功は、ふすまに落書きをして大家から怒られたことがあるそうです。しかし、それにこりず、観音様の絵をトイレに描いてしまったのですが、この絵が話題を呼んで見物客が訪れたそうです。

板画

棟方志功が版画を「板画」としたことはご紹介したとおりです。板の特長を生かして、その木の魂を彫るため「板画」にこだわったのだといわれています。

棟方志功の作品で注意すべきこと

棟方志功「慈母普及廣無限図」です。

 

 

 

 

 

棟方志功は、初期の作品にはサインを入れていません。棟方志功が作品にサインを入れるようになったのは、1955年頃のことです。さらに、作品のタイトルもしばしば変更しています。

版画の限定番号についても独特の入れ方をしており、必要に応じて刷り、必要に応じて日付やサインを入れていたとされています。

棟方志功が描いた絵画(倭画)も世界的に非常に高く評価されています。

贋作が多く出回っている棟方志功の作品

パソコンやスマートフォンが普及し、ショッピングも現在はインターネット上で行うことが当たり前になっています。インターネット上では、絵画などの美術品の売買も盛んで、もちろん、棟方志功の作品も出品されています。以前はほとんど「なんでもあり」だったインターネットオークションも、最近はルールがよく整備されてきましたが、残念ながら、ブランド品でも美術品でも「偽物」の出品はまだまだ続いているようです。

棟方志功のように人気の芸術家の作品は、相当数の偽物がインターネット上で販売されていると考えられます。それも、一般の人がまずわからないような、非常に精巧に作られた偽物が存在するのです。確かに売れる物は、すぐに偽物が作られる運命にあるのかもしれません。ただ、これらが野放しになっていることは危惧しなければなりません。

棟方志功の作品は偽物が多く、その数を考えると、ある程度の規模を持つ組織が絡んでいると考えるのが自然です。精巧な偽物も見つかっているほか、棟方志功の息子で、棟方志功の作品を鑑定していた棟方巴里爾さんの鑑定シールのコピーも発見されています。

とにかく、本物を見極めることが難しい世の中になったことは確かです。

まとめ

世界的に知られる日本の板画家・棟方志功について、その人物像や作品を交えてご紹介してきました。東洋的でエネルギーあふれる棟方志功の作品には、言葉も、版画や絵といった芸術の枠も飛び越えた大きな魅力があります。これまで、棟方志功の作品に出会う機会がなかった方は、近い将来、ぜひ見に行ってみてください。子供の頃からハンデを負いながらも、生涯をかけて芸術を追究した棟方志功の、なんともいえないパワーを、きっと体感させてくれるでしょう。